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2022 01
06

『私の見た世界遺産④ 英国・カンタベリー大聖堂』事務局・MN

カンタベリー大聖堂、聖オーガスティン修道院、聖マーティン教会
1988世界文化遺産、英国)

 14世紀の英国の詩人・ジェフリー・チョーサーによって書かれた物語集『カンタベリー物語』でも有名なカンタベリー市にある世界遺産、カンタベリー大聖堂、を紹介します。大聖堂他は、人類の創造的才能を表現する傑作として1988年に世界文化遺産に登録されました。私はかの地の大学院で、大陸哲学の流れを汲むフランス現代思想(ミシェル・フーコーやジャック・デリダ等)を基本に「イメージ論」を勉強していました。人はいかに物事を想像し、そして創造し、それをどのように言語を用いて体現しかつ再現していくのか、を研究していました。思索を繰り返す中、キャンパスから見える大聖堂に、視野を広げることの大切を教わったような気がしました。

カンタベリー大聖堂は、11世紀前半に献堂式が行われ完成した英国国教会の大本山です。フランス北部のノルマンディー公ギヨームが1066年にブリテン島に侵攻し(Norman Conquest)、イングランド王ウイリアム1世としてノルマン朝を開祖した頃です。

献堂式後も、政教分離を巡り、時の王と大司教が対立しその大司教が聖堂内で殉教したり、火事にあったり、増改築が繰り返されてきましたが、1200年以上にわたり、イングランド人の魂の総本山、として威厳を放っています。大きさもさることながら、私は、天高く伸びるゴシック様式が大好きです。ちなみに、ゴシック様式とは、もともとルネサンスの建築家らが、前時代の建築様式を「粗野」や「野蛮」と軽蔑し、「ゴート人(”Goth”; ゲルマン系の一部の部族)の」を意味する(ゴシック; Gothic)と呼んだことに起因します。なぜゴート人が「粗野」「野蛮」に見られたのは、紀元476年の西ローマ帝国の滅亡と深く関わっています。

大聖堂は、まさに4世紀から始まる「至福千年」と呼ばれる中世キリスト教時代に建造されました。この時代は、美術を含むあらゆる文化芸術活動がキリスト教のために為されました。そして、この大聖堂スタイルのゴシック建築様式も然り。それは「天国への入り口」を再現することでした。その天国の入り口は、高い天井(カンタベリー大聖堂も床から天井まで50メートル以上あります!)と、神の象徴だった光を幻想的に取り込むことで表現されています。むろん、中世に「電気」はなかったので、自然光の採光方法については、職人らはさぞかし頭を使ったことでしょう。なぜならば、光と影を見せることは、信者に視覚的効果をもたらし、神への御心を養生させるに効果的な演出だったと容易に推測できるからです。また、何か人間以上のものを信じる力、の養生であるとも私は思っています。しかし一方で、為政者が単に民衆を制御するために宗教を用いた実例、とドライな見解もあります。どちらも正解でしょう。いずれにせよ、人の何らかの意図を体現するために出来上がっている人工物としてのこの大聖堂が、カンタベリーを宗教都市として広く国内外に知らしめ、時を超えて、現在でも、王室をはじめ、信者、世界中(コモンウェルス・オブ・ネイションズ: イギリス連邦は、旧領土の53の加盟国が参加している経済同盟圏をなしています。)から聖教者らが巡礼のために訪れています。

そして、大聖堂は私にとって一生忘れることのない一つの空間です。その壮大な空間で学位授与式が執り行われたからです。音の無い空間で、自分の名前が呼ばれることを想像してみてください。異国の地で、異国の精神の支柱を担う大本山である大聖堂に響き渡る異教徒である自らの名前を!

卒業から四半世紀経った今、改めて思うことは、すべからく、人の意志や「魂」のなせる業、ということです。大聖堂を例にとっても、人が魂をかけて建造し、長きにわたり現代まで保存・維持されています。大聖堂はあくまで人工物ですが、それに愛着を持つか否かは、人が「意志」をもって、どこまで心を寄せようかと思うか、それ次第です。

「明治日本の産業革命遺産」もそう。その意義を解説する産業遺産情報センターも然り。 センターでは、奇跡と称される、幕末から始まる50年間の工業化の過程をパネル展示とともにガイドが解説しています。わずか3,300万人(幕末から明治初期の人口は現在の25%相当)という人口において、幕末の侍たちが国防のために真っ向勝負で挑んだことから始まるストーリーは、いつも魂に響きます。あなたが殿、藩士だったならば、国を守るためにどう行動しますか? 侍たちの生命の発露、を感じ取ることのできるストーリーを、是非、一度おききください。(おわり)

 

 

 

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